牛嶋天満宮について

牛嶋天満宮の由来

牛嶋天満宮は、今から870年前の仁平元年(西暦1151年)に菅原道真公の子孫である牛島教正公(うしじまのりまさ)によって創建されたといわれています。
現在の本殿の神殿にある擬宝珠に、延宝8年と刻まれていますので、西暦1680年の貴重な木像建築物で、佐賀市で2番目に古い建物だと言われています。
牛嶋天満宮の名前の由来は、このあたりは、平安時代末期に「牛島荘」(地名)と呼ばれていたことです。
【中世】牛島荘平安末期〜南北朝期に見える荘園名で、太宰府天満宮の安楽寺の領地であったようです。
荘域は現在の佐賀市東部の牛島地区から、西は市街地の水ヶ江1〜6丁目方面に及ぶ範囲です。
今から410年前ほど前に慶長年間、佐賀藩祖鍋島直茂公は、龍造寺氏の村中城を拡張して城下町の建設を行いました。その当時の書籍である「肥前古跡縁起」に佐賀城の艮(うしとら)の鬼門(北東の方角)に「元蓮池町牛の島」(現在の佐賀市柳町)にあった社を移して牛島天満宮としたと記載があり、佐賀城下の守護神として現在地に祀られております。
※「栄城歴代略記」によれば、慶長15年12月(1610年)御城築により「蓮池天満宮を牛嶋天満宮に移す」と記されています。

牛嶋天満宮の由来

牛嶋天満宮は、今から870年前の仁平元年(西暦1151年)に菅原道真公の子孫である牛島教正公(うしじまのりまさ)によって創建されたといわれています。
現在の本殿の神殿にある擬宝珠に、延宝8年と刻まれていますので、西暦1680年の貴重な木像建築物で、佐賀市で2番目に古い建物だと言われています。
牛嶋天満宮の名前の由来は、このあたりは、平安時代末期に「牛島荘」(地名)と呼ばれていたことです。
【中世】牛島荘平安末期〜南北朝期に見える荘園名で、太宰府天満宮の安楽寺の領地であったようです。
荘域は現在の佐賀市東部の牛島地区から、西は市街地の水ヶ江1〜6丁目方面に及ぶ範囲です。
今から410年前ほど前に慶長年間、佐賀藩祖鍋島直茂公は、龍造寺氏の村中城を拡張して城下町の建設を行いました。その当時の書籍である「肥前古跡縁起」に佐賀城の艮(うしとら)の鬼門(北東の方角)に「元蓮池町牛の島」(現在の佐賀市柳町)にあった社を移して牛島天満宮としたと記載があり、佐賀城下の守護神として現在地に祀られております。
※「栄城歴代略記」によれば、慶長15年12月(1610年)御城築により「蓮池天満宮を牛嶋天満宮に移す」と記されています。

御祭神 菅原道真公

菅原道真公は、平安時代、学者として天皇様にお仕えする家に生まれ、18歳の時に最年少で文章生に合格後は次々に難関を突破され、やがて学者の長ともいえる文章博士に任ぜられました。
その後、一度は都を離れ讃岐守として赴任されたものの、学識深く誠実一途なお人柄により宇田天皇の信任を得て都に復し、55歳にして右大臣まで務められました。
しかし、道真公の御活躍は、当時宮廷で勢威を奪っていた藤原氏一門の反感をかい、左大臣藤原時平の讒言により名ばかりの太宰権帥副長官として、都を遠く離れた太宰府に左遷されてしまいました。そして今から約1120年前に亡くなられました。

菅原道真公は、平安時代、学者として天皇様にお仕えする家に生まれ、18歳の時に最年少で文章生に合格後は次々に難関を突破され、やがて学者の長ともいえる文章博士に任ぜられました。
その後、一度は都を離れ讃岐守として赴任されたものの、学識深く誠実一途なお人柄により宇田天皇の信任を得て都に復し、55歳にして右大臣まで務められました。
しかし、道真公の御活躍は、当時宮廷で勢威を奪っていた藤原氏一門の反感をかい、左大臣藤原時平の讒言により名ばかりの太宰権帥副長官として、都を遠く離れた太宰府に左遷されてしまいました。そして今から約1120年前に亡くなられました。

境内のご案内

境内のご案内

本殿

神様(菅原道真公)が祀られているところが奥殿です。その手前が、神主が祝詞を奏上する祝詞殿、神様にお祈りする拝殿となっています。
本殿は平入形式の三間社流造銅板葺、拝殿は平入形式の入母屋造銅板葺で正面に軒唐破風(雨を入り口の左右に落とす造り)を備えています。

本殿

神様(菅原道真公)が祀られているところが奥殿です。その手前が、神主が祝詞を奏上する祝詞殿、神様にお祈りする拝殿となっています。
本殿は平入形式の三間社流造銅板葺、拝殿は平入形式の入母屋造銅板葺で正面に軒唐破風(雨を入り口の左右に落とす造り)を備えています。

満天恵比寿

5体で「満天恵比須」さま。
元々は、商家や街角に祀られていた恵比須さまですが、祀る方がいなくなり、当神社に奉納(遷座)されたものです。
牛嶋天満宮の御祭神は学問の神様「菅原道真」公で、受験期には合格祈願をされている姿がよく見かけられます。また、5体の恵比須さまがおられますので、5体で話し合い相談しながら、皆様の様々なお願い事に耳を傾けて「満面の笑み」で見守っておられます。

満天恵比寿

5体で「満天恵比須」さま。
元々は、商家や街角に祀られていた恵比須さまですが、祀る方がいなくなり、当神社に奉納(遷座)されたものです。
牛嶋天満宮の御祭神は学問の神様「菅原道真」公で、受験期には合格祈願をされている姿がよく見かけられます。また、5体の恵比須さまがおられますので、5体で話し合い相談しながら、皆様の様々なお願い事に耳を傾けて「満面の笑み」で見守っておられます。

稲荷大明神

農業・稲作の神さま、衣食住、商売繁盛など生活全般の御利益がある「稲荷大明神」。御祭神の正式名称は、「宇迦之御魂大神(うかのみたまのおおかみ)」で、「稲荷」は「稲がなる」という意味から、昔は農業の神様として信仰されおり、時代とともに農業だけでなく、衣食住、商売繁盛など生活全般のご利益があると信仰されています。
当社の稲荷大明神には「響の森」「楠の森」「錦の森」が祀られております。

稲荷大明神

農業・稲作の神さま、衣食住、商売繁盛など生活全般の御利益がある「稲荷大明神」。御祭神の正式名称は、「宇迦之御魂大神(うかのみたまのおおかみ)」で、「稲荷」は「稲がなる」という意味から、昔は農業の神様として信仰されおり、時代とともに農業だけでなく、衣食住、商売繁盛など生活全般のご利益があると信仰されています。
当社の稲荷大明神には「響の森」「楠の森」「錦の森」が祀られております。

白太夫神社

明治時代のモダンでおしゃれなお社「白太夫社」。
明治35年再建と記されており、旧来の石造りのお社をレンガで囲み込んだように建立、レンガの積み方は、列によって長手(横置き)、小口(縦置き)を重ねていく「イギリス式積み」です。
御祭神は「渡會春彦命」、道真公の御誕生を祈願された伊勢神宮の神官、その御神徳によってお生まれになったのが道眞公で、そのご縁で、道真公の養育役として忠誠を尽くされました。
御神徳は「子授け」「安産」「忠心」、今でも御祭神を見守るように社殿を向いて祀られております。

白太夫神社

明治時代のモダンでおしゃれなお社「白太夫社」。
明治35年再建と記されており、旧来の石造りのお社をレンガで囲み込んだように建立、レンガの積み方は、列によって長手(横置き)、小口(縦置き)を重ねていく「イギリス式積み」です。
御祭神は「渡會春彦命」、道真公の御誕生を祈願された伊勢神宮の神官、その御神徳によってお生まれになったのが道眞公で、そのご縁で、道真公の養育役として忠誠を尽くされました。
御神徳は「子授け」「安産」「忠心」、今でも御祭神を見守るように社殿を向いて祀られております。

金毘羅大権現

海上の安全を祀る「金毘羅大権現」。
海上安全の神様で、南を向けて(有明海方向)を向けて祀られており、石塔に「天明三」(西暦1783年)と記されており江戸時代中期の建立と思われます。

金毘羅大権現

海上の安全を祀る「金毘羅大権現」。
海上安全の神様で、南を向けて(有明海方向)を向けて祀られており、石塔に「天明三」(西暦1783年)と記されており江戸時代中期の建立と思われます。